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アフガン寺子屋プロジェクト
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 アフガニスタン現地報告会・山本&アシュマド&ドースト(2008年6月)
 アフガニスタンスタッフ島根訪問の様子V(2008年6月)
 アフガニスタン現地報告会・山本&ワヒド(2006年5月)
 アフガニスタンスタッフ島根県訪問の様子U(2006年5月)
 アフガニスタンスタッフ島根県訪問の様子(2005年7月)
 こむろ寿明のアフガニスタン視察日記(2005年6月)
 SVAジャララバード事務所長・市川 斉さん帰国報告会(2004年10月)
 寺子屋プロジェクトの取り組みとアフガニスタンの現状(2004年9月)
 アフガニスタン現地スタッフ帰国報告会(2004年2月)
    



アフガニスタン現地報告会(08.6.07・松江テルサ)
                             
 アフガン寺子屋プロジェクト(渡部通恵代表世話人)では6月7日(土)、松江テルサでアフガニスタン現地報告会を開催しました。アフガニスタンで学校建設事業や絵本の出版事業などを行っているシャンティ国際ボランティア会(SVA)ジャララバード事務所の現地スタッフ・アシュマドとドースト、山本英里さんが、集まった市民40人に現地の様子や募金に対する感謝の気持ちを述べました。また、SVAに07年度の募金100万円を寄託。累計の募金は900万円となり、4校めの学校建設に着手する運びとなったことが報告されました。

●アシュマット
 私は、アフガニスタンの首都カブールで育ち、10代の後半の頃、市内での戦闘が厳しくなり、爆弾が落ちてきて家が壊された。
 難民としてパキスタンに逃げ、ペシャワールから40km離れた田舎の難民キャンプに入ったが、なかなかアフガニスタンには帰ることができなかった。やがて貯金もなくなり食べることができなくなり、難民では日干しレンガをつくる単純作業ぐらいしか仕事がなかったが、何とか食いつないできた。
 4年前、ようやくアフガニスタンが落ち着いてきたということで、ペシャワール市内に移り、家族は今もそちらに住んでいる。仕事を探していて、ちょうどテレビでシャンティ国際ボランティア会(SVA)の活動を知り、「国の復興に携わりたい」と入った。家族は反対したが、4年目になった。
 アフガニスタンは30年間戦争をしてきて、現在も治安は悪いが、それでも平和を取り戻しつつある。
ほとんどの学校が破壊されており、青空教室で勉強している状態。学校建設は、まず、村の長老や学校の先生と話して、地域の人たちの協力が得られるかどうか重要なポイントとなる。特に、村の人たちが治安を確保してくれるかが重要となる。
 学校ができると村に引き渡して、日本の支援のことを伝える。こどもたちは、学校が日本に支援でできたことをよく知っており、今回も日本のみなさんにお礼の気持ちを伝えて欲しいと言っていた。
 (写真を見ながら)アフガン寺子屋プロジェクトの支援で、チャルディヒ小学校(04年)、ドゥダラク小学校(06年)、チャオキノール女子小学校(07年)が完成した。(06年度の募金を充て)ザルバーチャー女子小学校の建設を始める予定。
 チャオキノール女子小学校では、500人のこどもだったが、女の子でも教育を安心して受けられるという理解が深まり、今では700人の子どもになっている。
 3つの小学校だけでも数千人の子どもが学校に通えるようになっており、とても大きなことであり、学校建設は、これからのアフガニスタンをつくっていく上でとても重要なことだ。
 日本に初めて来る機会を得て、とても興奮して夢を見ていたが、それはもっと昔の日本のイメージで、しかも白黒だった。実際にはとても発展しており、びっくりしている。
日本のみなさまのご支援に感謝している。ありがとう。


●ドースト
 私はラグマン州の出身で、現在はナンガハル州に住んでいる。
 高校1年生のときにタリバン政権となり、元政府の高官だった父が狙われた。武装したタリバンが家々を襲い、4日間、山岳地帯を逃げ延びてパキスタンに入った。難民キャンプに入ったときには何も持っていなかった。
 落ち着いてからアフガニスタンに帰り、高校を卒業してからSVAに入った。図書館事業に携わり絵本の出版を行っている。
 アフガニスタンのこどもたちは、ずっと戦争が続き、それが当たり前。親や地域からキチンと育てられていないため、心の問題を抱えている。生活上の知識も十分でなく、絵本を通じて伝えていくことが重要だ。絵本出版により、@心の成長、A識字率の増加、B平和な世界への理解を伝えていきたい。
 絵本は、地元の長老の話を聞きとって話をつくり、地元の看板屋や印刷屋に発注する(タリバンの時代は、宗教的に絵はよくないということで、絵本がなくなった。絵を書く人もいない)。先生にも、絵本学習の重要性を伝えるためにワークショップを行っている。学校建設に合わせて図書館もつくり、そこに絵本を置いている。
 学校に行けないこどもたちのためには、「こども図書館」をジャララバード市内につくっている。ここでこどもたちの抱えている問題を知ることもできている。
 両親が死に、おばあさんと暮らしているこどもが、ケガの手当てもできなかったため悪化していた。半日以上ゴミ拾いをしているこどももたくさんいる。
 今のアフガニスタンには教育の復興が必要。日本の支援、寺子屋のみなさんの支援に感謝している。


【質問】
Q.ボランティアで学校をつくっているのか?
 建設の費用はちゃんと支払っている。最初に村と話し合って、資材や労賃は安く提供してもらうようにしている。技術が必要なところは専門の人を雇うが、それ以外は村に人でまかなうようにしている。

Q.1つの学校建設にどれぐらいのお金が必要なのか?
 4教室で500万円。標準的な13教室では1,500万円ぐらい。アフガン寺子屋プロジェクトからの寄付は、他の団体からの寄付と合わせて学校建設に充てている。

Q.机やイスはないのか?入りきれず、あぶれたこどもは?
 SVAが用意するのは、先生の机と2年分の教材だけ。生徒の人数が多く、午前・午後の2シフトで勉強しており、たくさんのこどもが入れるよう、あえて机は入れていない。最近人数が落ち着いてきたところでは、長いすと長机を入れようとしている。

Q.給食や通学は?
 給食はありません。遠い子では、2時間かけて隣村から通ってきている。

Q.どうやって移動するのか?
 一般的には、ロバやらくだが使われている。自転車のこどももいる。靴はなく、みんなサンダル履きで、はだしも多い。

Q.使い終わったランドセルを贈ってあげたいが?
 本当に何もなく、なんでも必要です。ありがたいが、学校に配るには人数分が必要で、送るのにもお金がかかり、結局は現地で買うのが一番安くなる。

Q.地雷はなくなったのか?
 多くの国が地雷除去の活動を行っているが、まだまだたくさんの地雷が残っている。

Q.先生は政府が雇い、足りているのか?
 先生は政府が雇っている。就学率は56%であり、まだまだ先生が足りていない。また、高校を卒業して先生になったのがわずか15%で、質の問題もある。政府の発表では、就学率を90%にするには、あと72,000教室、5,000の学校が必要といわれている。



アフガニスタンスタッフ島根訪問の様子V

 アフガニスタンで学校建設を行なっているシャンティ国際ボランティア会(SVA)のアシュマドとドーストが日本人スタッフの山本英里さんと来県。学校訪問や報告会を行ない、今なお5,000校の学校が必要という厳しい現地の現状を話すとともに、島根での募金活動に対するお礼を述べました。毎年、貴重な募金を寄せていただいた方々へその使い道を報告する機会を持たせていただいています。アフガニスタンへの関心や世界の平和について考えていただければ幸いです。

@松江3中でお礼のあいさつ A高等学校教職員組合を訪問
(08.6.13)
Bサンレイク宿泊研修中の斐川町・出東小5年生と交流(0.6.13)
Cみんなでアフガニスタンの踊りを体験 D松江農林高校の田植え実習の様子を視察(08.6.13) E付属小のサッカークラブちどりFCからボールをいただく(08.6.14)
Fいっしょにサッカーの練習をしました
(08.6.14)
G07年度募金100万円をSVAに学校建設募金として寄託(08.9.14) H松江テルサでの現地報告に立つアシュマド(08.6.14)
I絵本出版事業の様子を話すドースト
(08.6.14)





NGOスタッフが語るアフガニスタン現地報告会(06.5.16 島根県職員会館)


 たくさんの子供たちが、戦争で多くのものをなくしました。
 私たちの世代が、次の子供たちを悲しい目にあわせないようにすることが重要だと思っています。
 今、島根のみなさんを始めいろいろな国の人から支援を受け、私たちの世代ががんばれば、いつかアフガニスタンも平和な国になると信じて希望を持ってやっています。
   
(SVA・ジャララバード事務所スタッフ ワヒド・ザマニ)


足立美術館を見学。平和で美しい日本を訪問し、復興への思いを強めるワヒドさん(2006.5.17)


 新緑のまぶしい5月、遙か8,000キロ離れたアフガニスタンから、シャンティ国際ボランティア会(SVA)ジャララバード事務所のスタッフ、山本英里さん、ワヒド・ザマニさんを島根にお迎えしました。 
 昨年のナシマさんに続き2回目の訪問で、今回は、これまで募金いただいた松江市立母衣小学校、出雲市立光中学校、東出雲町立東出雲中学校を訪問。総合学習の授業でアフガニスタンの現状を報告し、募金のお礼もしました。
 また、(財)しまね国際センターでは、アフガンこどもピース基金(映画「アイ・ラブ・ピース」上映の際の募金)の補助でできた現地パシュトゥーン語の絵本を島田雅治理事長に贈呈しました。
 ここでは、5月16日の現地報告会の様子をお届けします(世話人・こむろ)。        
*SVAは、主に教育の復興に取り組む日本のNGOで、アフガン寺子屋プロジェクトは、島根で集めた募金をSVAに寄託し、学校建設を行っていただいています。02・03年度の募金400万円を充てたチャルディヒ小学校が04年8月、東部ナンガラハル州に完成。04年度の募金200万円を充てたドゥダラク小学校が今年6月に完成予定となっています。 

                          
【SVAジャララバード事務所・山本英里】

アフガニスタンで教育復興に取り組むSVA
 シャンティ国際ボランティア会(SVA)は、東南アジアの難民救済の時にできたNGO(非政府組織)です。元々は、曹洞宗の関係者が始めたものですが、社団となり、広く一般のみなさんにも参加していただきながら、東南アジアを中心に難民支援や教育支援活動を行っています。
 9.11の米同時多発テロを受けた空爆後、すぐにアフガニスタンに緊急支援に入りましたが、SVAとしては、これが初めてのイスラム圏での活動です。現在は、(日本の)政府の資金や民間の寄付などを使って、主に学校建設や図書館の事業などを行っています。
・曹洞宗の「曹青会」のみなさんに歓迎会を開いていただきました(2006.5.15)
 教育の必要性ですが、アフガニスタンの識字率は、成人で36〜40%。地方へ行くと「15歳以上の女性の識字率は5%にも満たないのではないか」と言われています。ユニセフの統計によると、4人に1人が1歳になるまでに亡くなってしまいます。
 子供たちが、学校で現在抱えている問題は、教師の質の低さ、教材のなさ、そして貧しさです。それに加えて、今いる子供たちは戦争しか知らないということです。
 私も大きくなるまで戦争を知らずに豊かに生活してきて、アフガニスタンに来て、初めて現地の同じ年代の人達と一緒に働くようになって、別れや壮絶な偏見とかにショックを受けましたので、もっともっと(日本のみなさんに)伝えていかないといけないと思っています。
 今日は教材など、このような物が足りないというお話をするよりも、SVAジャララバード事務所のスタッフとして働いているワヒド・ザマニさんから、ご自身が体験したこと、幼少時代はほとんど戦争で終わってしまったということで、具体的にお話をしていただいて、こういう子供たちがいるということをお話してもらいます。
・20年もの内戦などで荒廃したアフガニスタンの首都カブール。
3年続きの干ばつも重なり、500万人が難民になった(2005.5.24)


【SVAジャララバード事務所・ワヒド・ザマニ】


小学校3年生で父が死に、その時戦争が始まった
 まず始めに、アフガンの子供たちを代表して、ご支援をいただいた島根のみなさんにお礼を申し上げたいと思います。
 今日は、私自身の子供時代の経験をお話させてもらうことによって、少しでもそういった問題に対して理解していただけたらと思います。
 私は現在、母が一人、弟が二人、姉が一人、兄が一人の家族です。私が小学校3年生の時に父親が病死しました。
 ちょうどそのころは、ロシアの軍事侵攻が繰り返され始めていまして、それに対抗する戦士たち、ムジャヒディンと言われていますが、そういった人たちの対抗が始まるなど政情が不安定になり、そういった状況の中で、父親がなくなるというのは、私たち家族にとって厳しいものでした。
5回目となるアフガニスタン現地報告会には、たくさんの方々にお出かけいただきました(2006.5.16)
 私たちは首都のカブールに住んでいて、両親の故郷には先祖代々残してきた土地があり、その土地の収入を父親が死んだときに当てにしました。しかし、実際には、地方では戦争が激しくなりかけていて、ずっと都会に住んでいた私たちが田舎の方へ行っても、その土地の収入を当てにするということは難しいことでした。
 それで、母親が一生懸命走り回ってお金を工面したのですが、家族全員を食べさせていくのは大変難しく、私が学校を終わった後、働くことにしました。
 朝学校へ行って、夕方からはバザールで働くはずだったのですが、毎晩帰りが夜中近くになり、私もまだ幼かったので母が心配して、「やはり子供を働かせたくない」というので、お金を何とか工面して家畜を飼うことにしました。その牛で牛乳やヨーグルトを作って近所の人に売って生計を立てました。
 その頃のカブールは共産党の政権下におかれていると理解されており、ムジャヒディンの戦士たちが、ロシアに対抗するために、市民なども関係なくミサイル攻撃を繰り返す毎日となっていました。
・松江市立母衣小学校の6年生にアフガニスタンでの自身の体験を報告するSVAスタッフ(2006.5.16)
 私が学校でサッカーをして遊んでいたある日、ロケットが投下されてきました。私の友人が一緒にサッカーで遊んでいたのですが、近くでものすごい騒音がして、急いで家に帰ってみると、友人の家族全員7人がロケット弾で亡くなっており、たまたま一緒に遊んでいた友人だけが助かりました。
 その時、となりの私の家にもロケットが落とされ、幸い家族に負傷者はなかったのですが、生計を立てるために購入した家畜が、ロケット投下で犠牲になりました。


内戦で難民になり、パキスタンに脱出
 ロシア侵攻に対抗していたムジャヒディンの勢力が増して、やっとムジャヒディンがカブールを制圧しました。ロシアに勝って、やっと戦争が終わったということで、ムジャヒディンの戦士たちがやって来たときには、むしろ喜びをもって迎えました。
 ところが、ムジャヒディンたちが都市を制圧してすぐ、今度は民族間の闘争となってしまい、各民族同士の殺し合いがカブール市内の道々で行われるようなりました。
 ムジャヒディン戦士たちのやりたい放題で、街は無法状態になってしまい、タジク人がパシュトゥーン人を見つけると襲い掛かる、パシュトゥーン人がタジク人を見つけると襲い掛かるという日常の中になってしまいました。
・真剣な表情で報告に聞き入る出雲市立光中学校の生徒たち(2006.5.16)
 ある日私も道を歩いていると、ほかの民族の人に捕まってしまい、武装したそのグループは、私を道の横に立たせ動かないようにして、体すれすれを銃で攻撃をしてきました。その時は少しでも動いたら殺されてしまうのではないかと思いました。
 家の近くだったので、何人もの兵士が囲んでいるのを母親が見つけて、泣き叫びながら飛んできて、武装兵士に飛び掛っていったのですが、逆に母親も暴行を受けました。
 武装グループは、私を拘束したまま母親に対してお金を要求してきたのですが、そんなお金もなかった母親は、その場で泣き崩れてしまいました。その様子をみていた近所の人達がお金を工面して持ってきてくれて、やっと開放されることができました。
・アフガニスタンの民族衣装を着て盛り上がる光中学校の女の子たち。心に残る光景となりました(2006.5.16)
 その事件をきっかけに、母親と一緒に難民としてパキスタンへ出ることを決意しました。難民キャンプは当時すでにたくさんできており、政府からある難民キャンプの紹介を受けたのですが、ロシア侵攻の際、カブールにとどまった人達を敵視する傾向があり、私たちが遅れて難民として出てきたときには、区別する印になるように帽子をかぶせて、「学校へ行ってはいけない」とか「他の子供たちと一緒に遊んではいけない」とか、他の人たちよりも厳しいルールを課せられて、そこへ置いてもらうことができました。


土地をめぐって監禁され、母はおかしくなった
 そういった他の難民の人たちより厳しい状況の難民キャンプの生活を何とか抜け出すことができないかと、その時私は18歳か19歳だったのですが、亡くなった父の土地を何とか手に入れることができないかということで、田舎に戻ることにしました。
 しかし、無政府状況の中で、人々がやりたい放題の状態で、武力のある人が勝つという政情の中で、そういった人達に土地が支配されていました。正式な署名がなかったので、彼らは私がその土地に帰ってきたことを知ると、私を監禁して土地を売ったという書類にサインをするように強制してきました。
 2ヶ月間暴行を受け続けながらも、父親の土地は手放せないということで、書類にサインをすることを拒否し続けました。その武装グループは、私の母親に「もう息子は殺した」という手紙まで送りつけ、その間私は監禁され続けていましたが、何とか一人夜中に助けてくれる人が現れて、命からがら難民キャンプにたどりつくことができました。
 そのとき、小さな弟が私をみつけて母親に知らせたのですが、髪もひげも伸び放題で、母親が最初に私を見たときに、ショックで声も出ない状態でした。そういった様々な事件があったので、それ以来、私の母親は精神をおかしくしていまい、元に戻ることはなくなってしまいました。
・荒廃した台地の上に日干しレンガで家をつくって住んでいる。生活は厳しい(2005.5.25)

 
次の子供たちを悲しい目にあわせないようにする
 その後、なんとか収入を得るためにいろいろな職をさがして、危ないことから難民を守るNGOで働くことができました。その職についてからは弟たちを難民キャンプから出してパキスタン側の学校へ入れることもできました。
 それから田舎に戻り、土地を取り戻すこともできました。土地を取り戻した収入で、弟たちを勉強させたいという思いと、母親にもここでの生活を続けさせるのは難しいと思い、母親たちを難民としてオランダへ送ることを決意しました。
 弟たちはオランダで難民として受け入れられて学校へ通うこともできて、今は大学へ入って勉強しています。それ以来、家族とは10年以上会っていませんが、私は母国に残り、やっと戦争も終わりましたので、私たちの世代が次の子供たちを悲しい目にあわせないようにすることが重要だと思っています。
 今は島根のみなさんを始め、いろいろな国の人から支援を受けて希望を持っています。私たちの世代ががんばれば、いつかアフガニスタンも平和な国になり、「みなさんに観光に来ていただけるような国になるんじゃないか」と信じて希望を持ってやっています。
 簡単に私自身の経験を紹介させていただきましたが、こんな私の経験よりももっと辛い経験をした子供たちがたくさんいます。たくさんの子供たちが、この戦争にあって多くのものをなくしました。みなさんにこういったことを知ってもらいたいと思い、お話をさせていただきました。ありがとうございました。
・松江市立母衣幼稚園を訪問し、元気なこどもたちとも交流しました(2006.5.16)

 
【山本英里】


子供たちが一番の犠牲だが、一番希望を持っている
 私も、3年間彼と一緒にアフガニスタンで働いていても、辛いことであまり口にしなかったので知らなかったのですが、「(日本訪問に当たり)どういったことを話したらいいのか?」ということで、やはり実体験を話したほうが一番伝わるのではないかということで、今回話してくれました。
 ワヒドさんもそうですが、子供たちが一番犠牲になっているし、一番希望を持って国に戻っていっているのも子供たちかなと思います。
 そういった子供たちにどういった支援ができるのかということで、私たちの団体では「教育」という、今までやってきた経験を活かしながら、学校教育の支援と、もうひとつは学校に来られない子供たちもたくさんいますので、そういった子供たちにもなんとか支援ができないかということで、民間の図書館と両方の支援を行っています。
 ほとんどの学校は青空教室で勉強していますが、これだけ悪条件の中でも希望があるのか、この3年間で子供の数はゆるやかですが増えていまして、子供たちもたいした授業がなくても、元気よく学校にやってきてくれます。
・平田ケーブルテレビの取材を受けるSVAのワヒドさん(中央)、山本さん(右)
 

アフガンの抱える大きな問題は貧困
 アフガンの抱える大きな問題は貧困です。子供が働かなくてはならない。7歳ぐらいから道路に出て働くのですが、なかなか文化上、宗教上の問題から女性が外へ出て働くのが難しいという中で、もし父親がいなかったりすると子供しか働き手がいない。
 どんなことをして働くのかというと、大概がごみや鉄くずを拾い集めて換金をして、その日暮らしの仕事をしている。あと一般的に多いのは水汲みなどで、家に井戸がないので、公共の井戸や川から水を運んでくるのが子供たちの仕事になっています。
 学校に来る子供たちでも、空いている時間はそういった仕事に従事している子供たちが多いです。そういった子供たちは、毎日同じ時間に学校に来るというのが少ないので、学校に行く子供たちを横目で見ながら仕事をしています。
・雨が降らない荒野で暮らすアフガンの人にとって水は貴重。ペシャワール会がつくった井戸(2005.2.27)
 これは、今回みなさんに支援していただいて建設したチャルディヒ小学校です。アフガニスタンでは7,500の学校があると報告されていますが、そのうちの2/3の学校で(青空教室か校舎が破壊されており)校舎の建設が必要だとされています。
戦争で校舎が破壊されたということもあるのですが、長い戦争の期間の中で学校という場が利用されてしまったということもあります。
 ロシア政権下などでは、子供たちや親を学校に呼び寄せて教育をうたう一方で、「何をしていたか」という情報を聞き集めて、もし反政府的な行動が見られたら、その日の夜には刺客を送ってその家族を殺してしまう、というようなことに学校が利用されたということもありまして、内戦になったとき、一番最初に狙われたのが学校だったので、ほとんど見る影もなくなっています。


SVAが取り組んでいる学校建設事業
 (学校建設は)ワヒドが中心になって現地に赴いて、校舎がなくてもコミュニティーと学校が協力して学校活動をしている。そういった学校を中心に支援をしています。
 年間3校ぐらい(の建設)を目標にしていまして、教育局、コミュニティーやいろいろな所から情報を集めて、「ここだったらきちんとやってくれるだろう」という所で、長老たちに約束の契約書をもらいます。コミュニティーが、ボランティアで治安の問題とか食事などの支援をしてもらいながらやっています。
 機械とかがない状態ですので、コミュニティーの人がスコップで作業を進めていくのですが、きちっと労働者にお金を払うことで、質のいい物、またコミュニティーが自分たちの学校という意識が芽生えながらやっていけるので、なるべく業者に丸投げをするのではなく、資材購入、運搬、労働者への賃金等、補修などは全てスタッフが毎日出かけて行ってしています。
・学校建設には地域の人の協力が欠かせない。現地の人を使って現地の人がつくっていく(2005.5.26)
 そういうことをすることで、コミュニティーの人たちもきちんと働けるし、その後も、自分たちがそれだけ思いを持って建てた学校だということで、修復などが必要になったときでも、私たちの方には来なくても、コミュニティーの中で自然にメンテナンスをしたりするようになっています。
 学校をコ型にしているのは、外壁を多くすると問題に巻き込まれたり、費用が多くかかったりしてしまうので、現在は前のほうにだけ壁をつくり、ちょっとした中庭もつくって、そこで朝礼などができるようにしています。
 従来はベランダを作っていなかったのですが、6月には夏休みが始まるのですが、5月、6月には平均気温が45度以上、50度近くにまで上がることもあるので、要望があって現在はベランダも作っています。
・アフガン寺子屋プロジェクトの募金を充て完成したチャルディヒ小学校(2005.5.26)


絵本の出版を通してこどもたちの世界が広がる
 校舎を作ったらすぐに学校が再開されるのかというと、なかなかそうは行かなくて、ソフトの面での支援が重要となっています。
 SVAでは他の東南アジアの国では絵本というものを中心に25年以上続けてきまして、アフガニスタンでも本を使って文庫のお手伝いをするということと、希望を持ってこれから生活をしていくお手伝いができないか、ということでやっています。
 子供たちの生活範囲、環境がものすごく狭まれている中で、お話を通して少しでも世界観が広がっていく、いろいろなことを得られるということを目標としております。 本と言ってもアフガニスタンでは国内で本を購入しようとしてもなかなか無いので、絵本を出版するということをしています。
 印刷技術も悪いのですが、アフガンの国内で知られているお話を集めて、その中からアフガンの人に絵をつけてもらって印刷したものを、学校や図書館で披露しています。
・図書館は絵本を読むだけでなく、いろいろな遊びの場所にもなっている(2005.5.25)
 これを作った背景には、もともと宗教で偶像崇拝禁止というのが曲がって伝えられていた時期があったので、絵本を持っていくのに、なるべく現地に近いものを取り入れた方が受け入れられるのではないかということで、現在24タイトルを出版しました。
 今まで他の国では、日本のお話に現地語の訳文をつけて送るというのを続けていましたが、今年からアフガンでも始めました。というのは今、出版している本というのが、雑誌などはあるのですが、絵本がほとんどないです。
 折角建てた学校なので、そこを中心に図書活動をしていって、そこから他の学校に普及していければいいと思います。
・24タイトルの絵本を出版。木箱に入れて読み聞かせに出向いているSVAスタッフ(2005.5.25)


移動図書館でのお話や絵本の出版活動
 先生たちも、本を渡しても、なかなか本をうまく使うことがわからない、使用したことがないのでどう見せていいのかがわからない、ただ読んでおしまいということが多くあって、SVAのスタッフが各学校をまわって実際にお話を見せる。そうするとすごく練習して子供たちをひきつけるので、そういうのを見た先生たちが自然にやってみようかというようになっています。
 子供たちも、本を読んでもらうと、今度は自分で読みたいというように発展しています。結構簡単な絵本に見えますが、今回私もかかわってみて、こんなに手がかかるものかと思いました。チェックも厳しく、1年かかってやっと出版できるという感じです。
 公共の支援と民間の支援ということで、いままではコミュニティー文庫といっていたのを、子供図書館ということで、民家を借りてそこに絵本を置き、朝の8時から4時まで子供たちが自由に入れるようになっています。
 中には親がいなかったり、働くのに忙しい子供たちがたくさんいるのですが、好きな時間に入れるので、学校に行けなくても、水汲みの合間とかに、外にバケツを置いて本をパパパッとみて、友達と遊んで帰る子供たちも来てくれています。
 水や食料が必要という中で、絵本の支援が必要なのかとか葛藤はありますが、結果は10年後、20年後じゃないと出てこないと思います。この3年間の中でも大きな変化が出てきており、ものを言えない、最初から障害をもっていたというわけではなく、ただしゃべれないという子供たちがチラホラといたのですが、こういった読み聞かせなどをしていくうちに徐々に話せるようになってきました。
 これからのアフガンを背負っていく子供たちが力をつけていけるように、息長く取り組んでいきたいと思います。寺子屋のみなさまも、引き続きご支援をお願いいたします。
・2004年度50周年記念事業で100万円の募金をいただいた島根高教組にお礼の訪問。横山委員長から支援金をいただく(2006.5.17)

【こむろの感想】
 貧困と暴力が支配していた国アフガニスタンが、国際社会の一員として認知されるには、息長く教育を通じてこどもたちが力を養い、自立していくことが必要だと考えます。
 私たちにできることはささやかですが、必ずやアフガニスタンのこどもたちの未来を開く一助となっていると確信しています。引き続きご支援をお願いいたします。   
 そして、日本の若い世代が何の利害もないこのアフガニスタンで、復興のために命を削って活動していることは、とても素晴らしいことだと思います。SVAにかぎらず、こうした献身的な平和創出の努力こそが、日本が尊敬される国として信頼を得るカギになると思います
・アフガン寺子屋プロジェクトの募金を充て完成したチャルディヒ小学校を訪問した渡部代表・こむろ世話人(2005.5.26)



 06年5月、島根を訪問いただいたNGO・シャンティ国際ボランティア会(SVA)ジャララバード事務所のスタッフ、ワヒド・ザマニさんから、アフガン寺子屋プロジェクトの渡部通恵・代表世話人宛に、感謝の言葉が綴られたメールが届きました。原文(直訳)でお届けいたします。                  


Subject : Best Regards
From : Waheed Zamani  waheedahmazamani@yahoo.com
Date : Man,10 jul 2006 05:57:44-0700(PDT)
To : michi@masou.net 
親愛なる渡部さん、こんにちは。
ご家族ともども、お元気でお過ごしのことと思います。
島根県訪問の間、たくさんのことを学ばせていただきました。
みなさまのご差配に感謝いたします。
みなさまのおもてなし、親切にも感謝申しあげます。
島根では、とてもくつろぎ、まるでわが家にいるように快適でした。
おいしい料理、とりわけお酒の熱燗をいただきました。
アフガニスタンのこどもたちを支援いただき、招待いただいたみなさまに、感謝の言葉をお伝えください。
すべてのみなさま、とりわけあなたから幸せをいただきました。
ずっとあなたは、私のお母さんのようでした。
こむろさんにも、私の感謝の気持ちをお伝えください。
次の選挙での彼の成功を期待し、お祈りします。
私たちの投票が必要であるなら、そうすることでしょう。
アフガンのこどもたちのためのあなたと彼の尽力を、とても幸せに思います。
どうか、アフガニスタンのことを積極的にご説明ください。
なぜなら、メディアはいつも間違って、悪く消極的に伝えるからです。
私たちはテロリストではなく、同じ人間です。
私たちは、この世界の一員であり、同じ空に下に生きています。
アフガニスタンは今、援助を受けつつ、国の復興のため、国民はよい方向に変わりつつあります。
私たちは、諸外国とよい関係を築き、日本の人々との強くよい関係を築きたいと願っています。
日本とアフガニスタン、諸外国とのよい関係を築かせて下さい。
私たちは、この国を、もう一度戦争のない国にしたいと思います。
すべての人々が平和に暮らし、観光客のための、平和の象徴の国になれるように願っています。
日本訪問の間、私は、すばらしい時間を過ごし、日本の人々へも好感を抱かされました。
こむろさんに感謝をお伝えいただき、彼のもてなしにもお礼の気持ちをお伝えください。
すぐにメールを送れなくてすいません。
とても忙しい上、ナンガラハルは気温が摂氏54度にもなっているためです。
どうか、私の感謝の気持ちをすべての人々にお伝えください。
アフガニスタンに来られる際には、私の故郷のクナール州をご案内します。
高い山々と清冽な川を、気に入っていただけると思います。
アフガニスタンでお会いすることを楽しみにしています。
最高の感謝を込めて・・・。
ワヒド・ザマニ
アフガニスタン・ジャララバードより




【最新情報】
アフガン寺子屋プロジェクトの04・05年度募金300万円を充てたドゥダラク小学校が9月始めに完成予定となり、現地での竣工・引き渡し式に招待いただきました。渡部代表が再び訪問する予定です。





アフガニスタンスタッフ島根訪問の様子U(2006年5月)


 アフガニスタンの学校建設の様子やこどもたちの現状を知るため、現地でに取り組むシャンティ国際ボランティア会(SVA)の山本英里さんとワヒドさんを島根にお招きしました。
 島根の市民団体アフガン寺子屋プロジェクトの募金で04年8月チャルディヒ小学校が完成。06年6月には2校目のドゥダラク小学校が完成予定です。
 今回は募金に協力いただいた松江市母衣小学校、出雲市立光中学校、東出雲町立東出雲中学校等を訪問し、こどもたちと交流しました。
 当たり前に学べること、生活できていることのすばらしさを島根のこどもたちに感じてもらえたなら幸いです。(こむろ)

@曹洞宗有志のみなさんと懇談(06.5.15) A母衣小学校でこどもたちに朝のあいさつ(06.5.16) B授業の様子を見学するワヒドさん(06.5.16)
C母衣幼稚園のこどもたちとお話する
(06.5.16)
D母衣小6年生の総合学習で戦争の体験を話すワヒドさん(06.5.16) E出雲市立光中学校の2・3年生の総合学習で話す寺子屋PJ渡部代表(06.5.16)
F生徒代表からお礼の言葉を受けるSVAの山本さん、ワヒドさん(06.5.16) G女の子はアフガンの民族衣装に興味津々。盛り上がりました(06.5.16) H平田ケーブルの取材を受ける山本さん、ワヒドさん(06.5.16)
I県職員会館での現地報告会。06年度の総会も行いました(06.5.16) J04年度50周年事業で100万円の募金をいただいた県高教組を訪問。支援金をいただいたワヒドさん(左)。右は横山委員長(06.5.17) Kしまね国際センターにアフガンこどもピース基金で作成した絵本を届ける。右は島田理事長(06.5.17)
L八雲ふるさと館でそば打ちに挑戦するワヒドさん(06.5.17) M世界一の庭園足立美術館を訪問。アフガンが平和を取り戻すことを願う(06.5.17)




アフガニスタンスタッフ島根訪問の様子(2005年7月)


  
@城北小で朝のあいさつ A城北小の5年生の総合学習に参加 Bブルカを試着。女性の生活を勉強
Cお爺さんを山へ捨てに行く紙しばいを朗読。日本の姥捨て山と同じ・・・ D図書ボランティア「もくもくの会」のみなさんとの交流。アフガンの絵本を修理していただきました Eナシマさんを歓迎する飾りつけ
F松江3中での報告会 Gしまね国際センターでの報告会の様子 H島田理事長にピース基金で完成した絵本1タイトルを手渡し
I寺子屋プロジェクトの報告会であいさつするナシマさん、山本英里さん






こむろ寿明のアフガニスタン視察日記



 2005年5月末、アフガン寺子屋プロジェクトの渡部通恵代表世話人とともに、3年越しの希望であったアフガニスタン視察に出かけました。島根から贈った募金400万円を活用し昨年8月完成したチャルディヒ小学校では、生徒400人が歓迎。島根から持参したサッカーボール20個を贈って交流しました。国土の大半が草木も生えない岩山と乾燥地帯。戦禍にさらされ、荒廃した大地の上で、懸命に復興へと立ち上がる人々の息吹に触れ、恵まれた日本の環境を再認識。激励に訪れた私たちの方が、逆に元気をもらって帰国しました。


CONTENTS(目次)


5月23日(月)
SVAツアーに参加

5月24日(火)
飛んで、アフガニスタン
荒廃したカブール市内
峠を越えてジャララバードへ

5月25日(水)
教育事業に取り組むSVA
心を育むコミュニティー文庫

5月26日(木)
待望のチャルディヒ小学校訪問
SVAスタッフとの交流会

5月27日(金)
緊迫の金曜日

5月28日(土)
文明の交差するカイバル峠を越えて

5月29日(日
悠久の時を越えるガンダーラ美術

5月30日(月)
日本に足りないもの・・・


*添付資料・視察日程表




5月23日(日)

SVAツアーに参加

○朝8時発のANA米子便で羽田空港に。羽田からリムジンバスで成田国際空港に向かいます。米軍がコーランをトイレに流したとの報道に反発し、5月13日にはジャララバードで死傷者を出す暴動が発生。外務省では現在、アフガニスタン全域に「渡航延期勧告」、ジャララバードには「待避勧告」を出しており、戦争特約の保険4万円を支払っての渡航となりました。さすがにこの日の朝は、「何かあったら後はよろしく」と妻に声を掛け、こどもたちとも握手して松江の家を出ました。

○11時30分、成田の出発ゲートでシャンティ国際ボランティア会(SVA)の秦辰也専務理事、倉科利行理事、アフガン寺子屋プロジェクトの渡部通恵代表世話人、こむろ寿明世話人の視察団一行が初顔合わせ。もう一人予約があったようなのですが、ジャララバードの事件で辞退され、4人になったとのことでした。

○SVAは、かって「曹洞宗ボランティア会」と称していましたが、社団法人化とともに宗教色を排除。東南アジアやアフガニスタンで、難民支援や教育支援活動を展開している国際NGOです。今回の視察は、アフガン寺子屋プロジェクトの要望を受けSVAが企画。国会議員選挙が行われる10月前は治安悪化が懸念されるが、今なら大丈夫だろうとの判断で5〜6人限定での募集が行われました。

○SVAの秦辰也専務理事は工学博士。タイの市民活動家で「スラムの星」と讃えられた女性と結婚。現在その奥さんはタイの国会議員とのことでビックリ。倉科利行理事は長野県松本市の全久院の住職さん。SVA立ち上げ当初から、タイやカンボジアなどで難民支援や図書館活動などの教育事業に取り組んでこられた方とのことです。旅の間中、親父ギャグを飛ばし続けるユニークな人でした。

○午後2時20分、パキスタン航空(PIA)で成田国際空港を出発。4時間で北京国際空港に一旦着陸し、再びパキスタンへと離陸。北京から西へまっすぐ飛行し、チベット上空で南下。「地球のしわ」と呼ばれる5〜6千メートル級のヒンズークシ山脈を北から南へと縦断。11時間余りのフライトを経て、日本時間の24日深夜1時30分イスラマバード国際空港に到着。4時間の時差のため、現地時間は23日午後9時30分です。

○SVAジャララバード事務所のスタッフ・山本恵里さん、現地調整員のワヒドが空港に出迎えてくれました。山本さんは、静岡県天竜出身の日本人で30歳。ユニセフのスタッフなども経験。タイやアフガニスタンなどでの現地勤務も長く、とてもしっかりした女性です。昨年2月に日本に一時帰国された際、東京のSVA本部での報告会でお会いして以来です。危険な現地でよくがんばっているなと思います。

○現地時間の12時、イスラマバード市内のサボイ・ゲストハウスに到着。とっても甘いウエルカム・ドリンクを飲み、スープで軽い食事をとって休みました。部屋にはエアコンやシャワーも完備。南の国につきもののくるくる回るファンが天井に着いています。有名ホテルよりも、こうした民宿のようなつくりのゲストハウスがゆっくりくつろげて人気のようです。ただ、「水だけは気を付けて」ということで、初めてミネラル・ウォーターでの歯磨きを経験しました。


5月24日(火)

飛んで、アフガニスタン

○7時に朝食。パンとフライドエッグ、インスタント・コーヒーです。気温は15〜6度とさわやかな朝。パキスタン・イスラマバードは、日本の鹿児島県ぐらいの位置です。ゲストハウスの前をバック・パックを担いだこどもたちが通り、「おはよう」と声を掛けると応えてくれます。このあたりは、市内でも高級住宅街。ゲストハウスの約30メートル隣りの学校に、身なりを整えたこどもたちが徒歩や親に自動車で送られて登校してきます。こうした恵まれたこどもがごく少数であることに、後で気付くことになります。

○8時ゲストハウスを出発。8時50分イスラマバード国際空港で、国連やNGOを運ぶ専用機に乗り込みます。と言っても、これが10人乗りプロペラ機で、ちょっと怖い感じ。SVAツアーの6人に、日本の別のNGO関係の男性2人、カナダのNGO女性1人が乗り込み、アフガニスタンのカブール国際空港をめざします。

○短い滑走であっという間に飛び上がると、ほどなく国境の山々。左右の雪をかむった高い山脈の間を抜けます。目の前がコックピットで、前の窓が半分以上機器で隠されており、ほとんど前が見えません。ナビ着きの計器飛行とは言え、前が見えないのはとっても不安。カブールに近づき、人口湖とダム、発電所が見えました。


○1時間のフライトでカブール国際空港に到着。ここでまた30分の時差調整。時計を戻します。空港前はとてもにぎやかで雑然とした雰囲気。外国人と見ると、お金をくれとこどもが近づいて来ます。南アジアの国どこでも見られることですが、とてもつらい思いになります。SVAの現地スタッフが迎えに来てくれたハイラックスとランドクルーザーに分乗し、カブール市内に入ります。アフガニスタンでは車は右側通行。左ハンドルです。



荒廃したカブール市内

○最初に訪れたのはオリンピック・スタジアム。芝生とは到底言えない雑草のグランドで、サッカーの練習をしています。タリバン時代は公開処刑場だったとのことですが、ソ連の侵攻、20年の内戦、アメリカによる空爆など戦乱の絶えなかったアフガニスタンで、曲がりなりにサッカーができているのは、それだけ平和だという証拠。ちなみに、アフガニスタンはFIFAランキング200位。「俺(こむろ)でもできるかな?」という感じでボールを蹴りあっていました。


○次ぎに訪れたのは、市街地の中心の小高い丘の上につくられた先代国王のお父さんの墓。棺を囲った建物には銃弾の跡がたくさん残り、凄まじく壁が壊れています。ここからはカブールの市街地が360度見渡せますが、全てが破壊しつくされた様子が伺えます。緑が一杯のガーデンの中に100年ほど前つくられたという迎賓館も同様でした。そんな破壊された建物を補修もせず、軍が警備しているのですから不思議です。
                     

○この日はすごく寒く気温15度位。雨が降りそうな雲行き。アフガニスタンは、国土の3/4が険しい山々が連なる山岳地帯。カブールは高原特有の夏暑く、冬寒い乾燥した気候です。日本の援助で贈られた日の丸付きのバスが走り、松江の観光案内用のようなバス停もあります。現地の素材でつくれば経済の足しにもなるし壊れても直せるのにと思ってしまいます。

○ガンダーラ美術を収蔵しているというカブール国立博物館に入りましたが、何と本物の展示品は数点。後は全て写真が掲げられているだけで、戦乱の時代に全てが収奪され国外に持ち出されたと言われます。ガンダーラ美術の素晴らしさは、後にペシャワールで体感することになります。

○街中には、いろいろなバザールがあります。トマト、豆、スイカ、ニワトリなどの食材を売っている店、燃料の木やお菓子を売っている店、大工や自転車修理屋さん、電気屋さんなど。街全体が破壊しつくされた後だけに、まるで戦後の日本の闇市のような復興の熱気を感じます。

○走っている車は、ほとんど日本車。人気はトヨタのカローラ。丈夫でよく走ると評判です。たまに、カローラの新車を見ることもありましたが、ほとんど中古。それも20万キロ以上走っているのではないかと思われるような古さ。ボディーに○○自動車学校とか○○建設とか○○ホテルとか、日本語で書いてある商用車もたくさん走っており、「よくぞこんなところで、こんなに長くがんばっているな」と声を掛けたくなります。

○その中古車も、現地では7〜8千ドル(80〜90万円)と高額で、年収が数万円しかないといわれる一般のアフガニスタン人が買うのは無理な話。ディーゼル油もリッター60円と決して安くありません。車の商売では相当もうけている人もあるとのことで、アラブ首長国連邦(UAE)の首都ドバイが取引の中継になっているとのことでした。

○道ばたに兵士を乗せた戦車が数台。道路補修をしているカナダ軍のようです。道路は砂利道で、もうもうと砂塵が舞い上がっています。市街地は至る所で破壊され、壊れた壁や屋根を補修する工事がそこかしこで行われています。アメリカが大学をつくろうとしていたり、ロシアの大使館があったりと、いろんな国がこの国の復興に関わっている様子が伺えます。

○11時40分カブールにあるSVA連絡所に到着。調整員の現地スタッフ・ワヒドの土地と建物を借用しているそうです。間口20メートル×奥行き40メートルぐらいの土地に2DK15坪くらいの平屋の建物。カブール相場で月2〜3千ドル(とっても高い!)と言われる物件を格安で提供いただいているようです。ここで昼食をとりました。


峠を越えてジャララバードへ

○午後、政府機関などへの訪問が予定されていましたが、日程を変更しジャララバードに向かうことになりました。カブールから直線で200キロほどなのですが、現在主要幹線が工事で一方通行となっており、遠回りの山岳越えルートでは相当時間がかかるとのことで、今日中にジャララバードに向かおうということになりました。

○午後3時カブール連絡所を出発。市街地を出て砂利道の曲がりくねった道路を延々と走り続け、山岳地帯を上っていきます。5時過ぎ、相当高地の峠の茶屋に到着。おいしそうなわき水が出ています。岩山の上にはウドのようなものが自生。茶屋で量り売りしています。何本か買ってかじってみましたが、とても酸っぱい味でした。

○峠前後の風景は圧巻です。飛行機から見た「地球のしわ」とも言える5〜6千メートル級のヒンズークシ山脈を遠くに見ながら、見渡す限りのしわしわの禿げ山(2千メートル級で空気も薄い)をひたすらスラロームしながら越えていきます。道路沿いのところどころに白い石が置かれ、そこまでは地雷が埋まっていないとの印になっています。

○午後5時30分、峠を越えなだらかな下り坂に入ったところで、パキスタンからの帰還難民の隊列に遭遇。一時通行止めとなった対向車線に、延々5キロに渡って数百台のトラック、バス、ボンゴが数珠繋ぎになっています。ちょうどお祈りの時間なのか、敷物をしいてお祈りが始まったり、砂塵まみれの道路沿いでお茶を飲んだりしながら、ひたすら通行止めが解除されるのを待っています。長年の国外待避から帰還する決断の背景には、政情が安定してきたとの判断があるようです。

 
○アフガニスタンの山は木も草も生えない荒廃した大地ですが、それでも河原の跡と思われるような周辺にはところどころ緑の一体が形成され、水が何より貴重な資源であることがわかります。峠を越えところにあったソルビーという村は、豊かに水をたたえた川から水路を引き、その周辺に小麦を栽培し豊かな農村をつくっていました。まるで、私の故郷の瑞穂の田舎(30〜50年前)みたいな錯覚にとらわれました。

○沿道の農地の中に奇妙な土づくりの塔のような構造物があります。レンガを焼く窯です。いい粘土が出る畑では、掘り起こして成形し窯で焼き固めてレンガにします。家を囲む塀には、土を固めただけの日干しレンガを使うことが多いようですが、家を建てるにはしっかりしたレンガが必要のようです。

○大きく迂回してジャララバード・カブール道路の本線に入ると、中国が道路整備を行っている区間に入り、ようやく舗装道路に・・・。午後8時、SVAのジャララバード・ゲストハウスに到着。伊藤丈二ジャララバード事務所長、犬のハナちゃん、猫のサクラがお出迎え。見上げると真上に北斗七星が見えます。伊藤所長は、この2月、寺子屋プロジェクトの04年度募金200万円をSVA東京事務所にお持ちした際お会いしています。4月からジャララバード事務所長として赴任されました。

 
○遅い夕食をとりながら歓談。13日ジャララバードで発生したデモの際は、暴徒が外国人を襲いかねない状況で、隣の家の塀を乗り越え、現地スタッフに抱えられながら町中を走り、空港から小型機でカブールに避難する緊迫した事態だったとのこと。日本でも大きく報道されましたが、内情は、宗教にかまけた略奪のための暴動だったとのことです。一触即発、何があってもおかしくないアフガニスタンの政情を感じさせられます。


5月25日(水)

教育事業に取り組むSVA

○朝6時35分起床。ジャララバードはカブールより標高が低く約600メートルほど。少し暑い感じがします。ジャララバードを州都とするナンガラハル州は、アフガニスタンの東部、パキスタン国境に位置しています。言葉はパシャイ語、パシトゥーン語、ダリ語の3カ国語。トウモロコシ、小麦、サトウキビ、オレンジ、リンゴなどを栽培しており、人口は250万人。州都ジャララバードを中心に21の郡があります。

○シャルワ・カミーズと呼ばれる現地服に着替えます。首都カブールでは、外国人も含めさまざまな服装をした人々が闊歩していましたが、ここジャララバードは非常に保守的な地域で、現地服でないと「危険」とのこと。とてもくつろげててらくちんなのですが、はっきり言って、あのオウム真理教の人たちの出で立ちとそっくりで、とても日本では着て歩けそうもありません。女性はいいのでしょうが・・・。

○昨年10月島根に来ていただいた市川斉前所長のシャルワ・カミーズを拝借。だぼだぼの上着をかぶり、KONISHIKIでも入りそうなゆったりズボンをはいてひもで締めます。5月始めから髭も伸ばしていたため、ハザラ人にそっくりと言われてしまいました。13世紀にアフガニスタンを征服したジンギスカンらモンゴル人の子孫であり、日本人とそっくりの容貌。ただ、少数民族だけに、弾圧される傾向にあります。

○ゲストハウスから車で30分移動。8時40分、SVAジャララバード事務所に到着。現地スタッフによるレクチャーを受けます。最初に伊藤所長と山本さんから、「どんなに近くても、歩いて出かけるのはちょっと問題がある。治安は一見平穏だが、事務所を一歩出ると何があるかわからない。村に入ったときには、男性が女性に話しかけたり、女性が男性に話すと言うことはあり得ないこと」とまず注意を受けました。


スタッフの自己紹介と事業の説明


・事務所総括(調整員・ワヒド・ザマニ)

○アフガニスタン北部のクナール県出身です。難民としてペシャワールに長く住んでいたため、なじみのないナンガラハル州で、外国のNGOに入ってやっていけるのかと不安でしたが、SVAがこどもたちの教育のためにがんばっているところを見て、今はできれば長くSVAで働きたいと思っています。

○ワヒドは、ザマル家というアフガニスタンではとても有名な一族の出身です。お祖父さんはシャーに使えた有名な将軍だったそうですが、政権の交代とともに暗殺され、一族も離散。ワヒドもお母さんや兄弟とパキスタンに逃れました。その後、兄弟もお母さんもオランダなどに出て行かざるを得なくなり、以来ずっと会ってとのことでした。

○国連で働いていた叔父さんが、麻薬中毒者の社会復帰を支援するNGOネジャット・センターをペシャワールで立ち上げ、ワヒドも10年間そこで働いていましたが、SVAが行った空爆後の緊急食料支援をネジャット・センターが手伝ったのが縁で、SVAに入ることになったとのことです。


・絵本出版事業(責任者・ハニム)

○45歳だと思いますが、(親が誕生日を覚えていないため)よくわかりません。3人こどもがいます。カブール大学で1年間ボランティアで働いていた経験から、SVAの目的である教育がアフガニスタンの今後の復興のためにとても大事であると考えており、長く働きたいと思っています。

○アフガニスタンには、こどもが楽しめるような現地語の絵本がなく、現地の民話を集めて絵本をつくっています。物語は、政治的思惑がないこと、文化・習慣がこどもたちに伝わるもの、暴力的でないものを選び、1タイトル1,000冊を作成して、学校に配布しています。SVAが図書館活動で関わっている学校には多めに配布しています。

○絵本の作成は、まず、現地の民話を集め、お話の形で書き下ろして、現地のボランティアによる出版委員会にかけて物語をチェックし、オーケーであれば画家に渡します。画家と言っても、1枚100〜200ドルもとるような絵を描く画家もいますが、絵本向けでないため、看板屋に頼んでいます。キチンとした印刷会社がアフガニスタンにできれば出したいのですが、現状その能力がなくペシャワールの会社に出しています。

○なお、SVAでは、今年度(財)しまね国際センターが管理する「アフガニスタン・ピース基金」の助成200万円を受け、3タイトルの絵本の出版を計画しています。ピース基金は、アフガニスタンの義足の少女と島根県の人たちとの交流を描いた映画「アイ・ラブ・ピース」の上映で集まった寄付金が充てられる事業です。


・移動図書館事業(責任者・バワール)

○ラグマン州出身。多分24歳。別のNGOで働いていましたが、汚職があってそれがいやでSVAに来ました。アフガニスタンは、学校が少なくて教育が行き届いていません。日本の人が、政治的な思惑でなく純粋に手助けしてくれることを嬉しく思っています。

○図書館のある学校がなく教材も少ないため、絵本を入れた木箱(モバイル・ボックス)を学校に持って行き、読み聞かせやゲームをします。こどもたちは絵本に興味を持ってくれており、真剣に聞いてくれます。週1〜2回、30分ぐらいの時間で30〜50人のこどもたちが対象。また、先生にも、読み聞かせの仕方を教えたりもしています。


・学校建設事業(責任者・ミナ)

○決定的に学校が不足しています。設計、見積もり、スケジュール・資材の管理を行っています。以前は、政府のエンジニアとして働いていました。

○学校をつくる場所の選定には、地域の人がどれだけ学校を欲しがっているのかと同時に、どれだけ支援してくれるのかが重要になります。セキュリティーや資材の現地調達、建設した後どれだけ大事に使ってくれるのかという点を考慮し、州の教育省がピックアップした建設候補地の中から選定します。以前学校建設を計画したスータン村では、事業に入ってからコミュニティーが分裂。やむなく事業地を変更したこともあります。

○バチコット郡はジャララバードから45キロぐらいのところにあり、最初につくった8教室のタキアガレイ小学校(児童数300人)があります。昨年8月には、アフガン寺子屋プロジェクトから贈られた2002・2003年度募金400万円が充てられたチャルディヒ小学校(同2,075人)も完成しました。

○ラルプール郡には全体で3つしか学校がなく、そのうち2校、チャキノール小学校(児童数300人)とグルダック小学校(同800人)をSVAが支援し今月完成しました。どちらも13教室。ジャララバードから90キロで、東側がすぐパキスタン国境。車を木の船に乗せ、川を渡らなければ行けないところです。

○アフガン寺子屋プロジェクトから贈られた2004年度の募金200万円と他の団体の資金をマッチングして、ダライヌール郡のドゥダラク小学校(同800人)を今年7月から建設します。13教室の学校が来年1月には完成予定。ジャララバードから約60キロです。その他、ゴシュタ郡のアハマディ小学校(同1,450人)を今年度つくる予定です。


・コミュニティー文庫事業(責任者・ナシム)

○21歳。生まれてすぐ父親を亡くし、戦乱に入り、母親が乳飲み子の自分を抱え命からがらペシャワールに逃げました。4〜5歳くらいまで親戚のところを転々としましたが追い出され、野宿しながらの生活を経験。孤児院に受け入れられ、母親もそこでまかないで働き、18年間ペシャワールで暮らしました。NGOは初めてですが、SVAが貧しいこどもたちに目を向けて教育に取り組んでいることを見て、働きたいと思いました。

○コミュニティー文庫は、こどもたちが読み聞かせやお絵かきなどで勉強する場所で、本の貸し出しもしています。午前は8時〜11時30分、午後は1時30分〜4時に開いており、毎日100〜150人のこどもたちが来ています。割と遠くからやってくるこどももいます。お父さんがいない、お母さんがいなくて学校に行けないこども、学校に行っていても勉強(授業)についていけないこどもたちもいて、識字教室もやっています。将来的には文化活動なども取り組みたいと考えています。  


心を育むコミュニティー文庫

○午後は市内のコミュニティー文庫に出かけ、こどもたちと交流。市内の一角にある文庫は借家で、現在は3ヵ所めとのこと。外国のNGOが不動産を持つことが許されていないため、1年更新で家を借りるのですが、復興とともに家賃が値上がりする傾向で、やむなく転々とせざるを得ず、事務所やゲストハウスも同様の状況とのことでした。

○午後は市内のコミュニティー文庫に出かけ、こどもたちと交流。市内の一角にある文庫は借家で、現在は3ヵ所めとのこと。外国のNGOが不動産を持つことが許されていないため、1年更新で家を借りるのですが、復興とともに家賃が値上がりする傾向で、やむなく転々とせざるを得ず、事務所やゲストハウスも同様の状況とのことでした。

○ここには、SVAが出版した絵本を始め日本の絵本など500冊の絵本が置かれています。午前か午後、学校が空いた時間にこどもたちが通ってきており、今日は、幼稚園ぐらいから小学生高学年まで、男女50人ぐらいのこどもたちが来ていました。

○歓迎の歌(正確には、アフガニスタンには歌がなく、詩の朗読「タラナ」)の後、こどもたちの歓迎の出し物。空(そら)で絵本を朗読するこどもや、何人かが一緒になっての芝居が行われます。とっても上手で、大きなが拍手が贈られます。

○日本からの視察団もかねて打ち合わせの歌でお返し。童謡の「もみじ」と「カエルの歌」。秦さんの指揮で、渡部、倉科、こむろと輪唱が美しく響くはずでしたが、全く音程が合わず、こどもたちは不思議な表情。でも、表現を交えた最後の「ゲロゲロゲロゲロ、グァグァグァ」が大好評で、全員で合唱。その後文庫で流行となったようです。

○外に出て、庭でこどもたちのパン食いならぬリンゴ食い競争が行われます。なかなかリンゴをゲットできず、思いっきり笑いました。その後、寺子屋プロジェクトの渡部代表からのあいさつ。島根から持ち込んだサッカーボール3個をプレゼントし、こむろがリフティングなどちょっとだけデモンストレーションしました。

○この日は、ワヒド手作りの夕食をご馳走になりました。ナン、鶏の煮物、牛肉のトマト煮、サラダ、ヨーグルトなど。日本人の口にも十分馴染む味なのですが、基本的に、昼・夜とバリエーションが同じなのがたまに傷と言ったところでしょうか。


5月26日(木)

待望のチャルディヒ小学校訪問

○朝8時。今日は、アフガン寺子屋プロジェクトの募金が充てられたバチコット郡のチャルディヒ小学校へと向かいます。視察の最大の目的であり、ぜひ訪ねたかった場所です。

○砂利道を約50キロ、細い小川沿いの緑溢れるチャルディヒ村(人口23,000人)に9時23分到着。ぬかるんだ村の道を奥に進むと、写真で見ていたチャルディヒ小学校に到着。隣にもう一つ新しい校舎が建っていてビックリ。ジャイカ(独立行政法人・日本国際協力開発機構)が建設中の第2小学校とのこと。地元の人が網を窓に取り付けるなど、仕上げ段階に入っていました。

○こどもがチャルディヒ小学校の校庭に溢れています。ちょうど州の統一テストが行われているところとのことで、12畳ぐらいしかない教室では狭すぎるため、カンニングできないように外に出て、1メートルずつ距離をとって試験を受けています。テストが終わるまで待って、生徒400人が集まった歓迎の式臨みました。


チャルディヒ小学校の理事長マザル・ナシュクの感謝の言葉
「この村は、20年間の戦争で全てが破壊され、何もありませんでした。そこで学校教育を始め、雨が降ったら1〜2週間休校しなければならないような状態でしたが、こうして学校ができたことで、安心して学ぶことができとても感謝しています。学校建設を支援してもらいましたが、私たちは貧しいので、形でお返しすることができません。しかし、あなた方の健康と幸運のためにお祈りをします。村の女たちは、宗教や文化の壁があり、ここでみなさんをお迎えすることができませんが、女たちの心から感謝しています」



アフガン寺子屋プロジェクトの渡部通恵代表世話人からこどもたちへのあいさつ
「こんにちは。日本から来ました。学校をつくろうと思い立ったときから3年間、ずっとアフガニスタンに来ることを待っていました。あなたたちに会って自分の目で見たことを、募金してくれた日本のこどもたちや大人たちに話します。あなたたちは世界の宝ものであり、その宝ものを育てるのは大人の責任です。だから、私たちのやったことは特別なことではありません。あなたたちが大きくなったとき、ぜひ世界の人たちと仲良くして下さい」
 

○島根の少年サッカーチームから贈られた使い古しサッカーボール20個を贈呈。島根のこどもたちとアフガニスタンのこどもたちの架け橋であるボールを持って記念撮影。ついでにデモンストレーションを求められ焦りましたが、マーカーを置いてのドリブル、リフティング、トラップをこむろ実演し、こどもたちがトライ。サッカーはあまり馴染みではないようで、下手なこむろがうまく見えてしまいました。

○このサッカーボールは、島根県サッカー協会松江支部4種委員会に呼びかけ集まったもの。セレジェイラ安来FC、ちどりFC、東出雲FC、松江南ユナイテッドFC、法吉FC、城東JFCの6チームから60個を越えるボールを提供いただきました。残念ながらアフガニスタンには宅配便がなく、手荷物で持ち込むしかないということで、各チームのボールから4個づつ、トランクに詰められる24個に厳選しての持ち込みとなりました。残ったボールも何らかの機会に役立てたいと思います。

○歓迎式が終わって、先生を交えてお茶の時間。理事長は60歳で、マザル・シャー国王の時から先生をしているとのことです。「ぜひ昼食を」と客人歓待のお誘いがありましたが、時間の都合で丁重にお断り。「今度いつ来ていただけますか」との問いに、「アズ・スーン・アズ・ポシィブル」と渡部さんが早期の再訪を約束しました。

○学校は、朝、昼、晩の3サイクル。公式には2サイクルになっているとのことですが間に合わず、先生がてんてこ舞いで教えているとのことです。一見農産物のよくとれる裕福そうな村であり、それだけにパキスタンや国内難民の帰還がとても多く、どっと帰ってきてこどもが増えているとのことです。こどもたちはとても学校が好きで、遠くのこどもは自転車で1時間ぐらいかけて通ってきているとのことです。

○こどもたちを呼んでもらって話を聞きました。3〜5年生の5人。午前中の授業は8時〜12時まで45分授業の5時限。パシュトゥーン語、ダリ語、数学、科学、生物、物理、歴史、宗教など多くあるとのこと。こどもたちに「勉強は難しい?」と聞きましたが、「簡単」と答えます。週1回の体育では、バレーボールとかしているそうです。

○兄弟はみんな3〜10人ぐらい。普段は水くみや家畜の世話などの家の仕事でとても忙しく、そうした手伝いはこどもたちには当たり前で、空いた時間は勉強をしているとのこと。日本のこどもに聞かせてやりたい話です。将来なりたい職業では、医者、エンジニア、先生、パイロットがあがり、みんなチャルディヒ村に帰ってきたいと言っています。アフガニスタンのこどもはみんな「お母さん好きだから」とのことでした。

○11時、チャルディヒ小学校を後にします。村には日本の援助でもう1校女子の学校もつくられ、SVAの学校建設が引き金になり、3つの学校を持つ村になりました。帰路、ザヒル・シャー国王の迎賓館を見学。12時30分ジャララバード事務所に到着です。


SVAスタッフとの交流会

○SVAスタッフと一緒に昼食を食べ、午後交流会となりました。一人ずつ自己紹介をして感想を述べます。

こむろ寿明
「スタッフの配慮で充実した視察ができました。チャルディヒ小学校で島根の少年サッカーチームからもらってきたボールを贈りましたが、こどもたちには、ぜひ学校で頭を鍛え、サッカーで身体を鍛えて、アフガニスタンの自立を支える人材になって欲しいと願っています」

渡部 通恵
「もう日本に帰れないかもとしれないくらいの気持ちでやってきましたが、日本にいてニュースだけではわからないことがたくさんありました。預かったお金の使途を確認できたので、日本の人達に伝えたいと思います。たくさんのことができるか約束できないけれども、精一杯がんばっていきたいと思います」


  
倉科 利行
「アフガニスタンを訪問し様々な経験ができてとても嬉しい。私は現地のスタッフとアフガニスタンの人たちを信頼している。私自身、これからもみなさんと一緒に歩んでいきたいと思います。ありがとうございます」

秦  辰也
「もてなしに感謝します。今年は、アフガニスタンのプロジェクトの新たな3年計画のスタートの年です。また、アジアこども文化祭が秋にカンボジアであり、アフガニスタンからもこどもを招待したいと思います。スタッフには、アフガニスタンが自分の力で自立していくという心を忘れないでがんばって欲しいと思います」

アフガニスタン・スタッフ
「25年間の戦争の中で全てのものが破壊され、9.11以降戦争が終わってからも、アフガニスタンに戻るよりもどこかに行って暮らす方がいいと考える人が多い状態でした。しかし、こうして日本の人たちが支援していただいて、ようやく自立へと歩み出すことができようとしています。カンボジアにも招待いただいて、とても誇らしい思いです。私たちは貧しいので何もできませんが、友情の心が残っています。あなたたちが支援して下さったことを2度と忘れることはありません。大変な思いをして募金を集めていただいたことにも感謝します。そして、病気で療養中の市川斉前所長にも、現地スタッフががんばっていると伝えて下さい」

 


○スタッフとの歓談では、私(こむろ)に十分な英語力がなく、コミュニケーションできずもどかしい思いでした。最後に、現地スタッフの「ノット・フォーゲット・アフガニスタン(アフガニスタンのことを忘れないで・・・)」の一言が胸に残り、一過性でなく、息長く少しずつ支援を積み上げていかなければと思ったところです。

○この日は、日本を離れているSVAスタッフのために日本料理をつくることになり、街のバザールに買い出し。ニンジン、なすび、ジャガイモなどを仕入れ。一風変わった一行の出現で、ものの5分ほどで10人の野次馬が集合。私たちが映しているカメラやビデオが気になるようで、撮影したばかりの映像をすぐ見せてあげると大喜び。ちなみに、10アフガニー(日本円で20円弱)で牛乳が1パック、ナンが3きれ、卵が2個買えるとのこと。物価は1/10程度でしょうか。

○渡部さんの指示の下、秦さん、倉科さん、こむろと総出で、皮むきやスライスなど下ごしらえ。天ぷら、ポテトコロッケ、肉なしの肉じゃが、ぬたをつくり、ワヒドを招待して夕食を堪能。イスラムでは飲酒は禁止ですが、家の中で外国人が飲むぶんにはいいようで、カブールで仕入れてきたハイネケンとオーストラリアビールで乾杯となりました。

○この日の夜、山本さんのアドレスを借りて妻の携帯宛にメールを打ちました。衛星につなぐ仕組みになっており、これなら世界中どこにいても情報交換ができます。後で妻に聞いたら、怪しいメールで開けない方がいいかと思ったとのことでした。


5月27日(金)

緊迫の金曜日

○金曜日はモスクの礼拝の日で休日。ちょうど2週間前の5月13日、ジャララバード市内で礼拝後に行われたデモ行進が暴動に発展し、多数の死傷者が発生。SVAを含むNGOスタッフや国連職員全員がカブールに脱出するという緊迫した事態になりました。街は一見平穏そうですが、礼拝のある金曜日ということで、また同様の事態が起きかねないと事務所スタッフも緊張。日本大使館からも、状況把握のための電話も入りました。

○こうした状況で、予定していたゴシュタ郡のドゥダラク小学校の建設予定地視察は取りやめ。ダライヌール郡のSVAスタッフの実家に待避して様子を見ることになりました。最悪の事態を想定し、場合によっては、そのまま国外に脱出することもできるよう荷造りをやり直し、朝10時ゲストハウスを出発です。

○2週間前デモ行進がスタートしたというモスクの前を通って市街地から農村部に。カブール川は豊かな水を湛えており、途中日本のODAでつくられたという灌漑設備もありました。ダライヌール郡に入ると、道の両側に広い麦畑が続き、ちょうど刈り入れと脱穀の時期でこどもも大人も働いています。目の前に雪を冠した高い山々が見えます。

○川添いの緑豊かな村で、ペシャワール会(中村哲代表)がつくったという井戸を見学。5世帯に1個くらいの割合でたくさん井戸を掘っているとのことです。今年は、大雪も降り川の水量も多いのですが、タリバンが支配していた時代には、5年間ぐらい全く雨が降らない干ばつが続き、井戸がなくて大変だったとのこと。水があるところには、人が集まり、作物が育ち豊かな村ができています。

○12時過ぎ、ダライヌール郡カライシャイ村のSVAスタッフの実家に到着。スタッフのお兄さんが村のパウチャー(長老)とのこと。家の真ん中には、樹齢300年はたっていると思われる巨大な桑(マルベリー)の木があり、素晴らしく涼しく快適な空間をつくっています。ゲストルームが古くなって壊れたこともあり、桑に木の下に6つのベッドをコの字型に置いたゲスト・スペースとなっています。村のジルガ(会議)もここで開かれるとのことです。

○心づくしの昼食をいただきました。ナン、鶏の煮物、牛肉の煮物、サラダ、飲み物は定番のペプシと豪華な料理。料理を運ぶのはこどもたちで、黙々と働きます。女性は料理をつくるだけで、こうした場所に顔を見せることはありません。アフガニスタンの食事は黙々とたっぷり食べるのが習慣。残った料理は、お母さん、こどもたちのお腹にこれから入るようです。

○山本さんと渡部さんが女性の部屋や炊事場などを見せてもらっていましたが、部屋には家具らしいものもほとんどなく、調理もかまど一つで行われていたとのこと。アフガニスタンの農村の厳しい生活環境が伺えます。歓待いただいた豪華な昼食をつくるには、おそらく朝早くから調理にかかりっきりだったろうと思われます。

○1時間ほどの昼寝の後、お茶の時間にパウチャーが空気銃を持って出てきました。15メートルほど離れたマッチ箱を的にして射撃練習が始まります。ソ連軍との激戦があった村と言うことで、若者はムジャヒディンと呼ばれるイスラム戦士として戦い、そのなごりでどの家にもいざというときのための小銃が置かれているとのこと。近くの峠には、ソ連軍の監視所跡があり、山岳地帯にまで戦争の爪痕が深く残っています。

○つい隣りのプライベート・モスクに村人が集まりお祈りをしていましたが、一段落し落ち着いたところで周囲を散策。小麦の畑、柿の木、バナナの木(今年は35センチもの積雪で枯れたとのこと)などがあり、魚の養殖も行われていました。川は石積みできれいに整備されており、草も家畜が食べたのでしょうか、きれいに刈り込んであります。昔、こんなところで遊んだな〜と郷愁を感じます。

○桑の実がどっさり出てきて、おやつにいただきました。結構おいしかったのですが、どうもこれが悪かったのか、後でお腹の調子が・・・。熱処理された料理はいいのですが、どうしても水でやられるとのこと。ラジオでジャララバード市内の様子を確認。この日パキスタンの首都イスラマバードでの自爆テロで数人の死傷者があったとのことですが、アフガニスタン国内は平穏だったようで、みんな一安心。

○4時、パウチャー一家に別れを告げ帰路に。道々にこどもたちの姿が見えます。この村の住むパシャイ族の女の子はとてもきれいです。紀元前アレキサンダー大王がこの地を征服したときの末裔と言われており、金色の髪、彫りの深いギリシャ系の顔立ちです。日本に支援でできた小学校があります。ちょうど結婚式にも出くわしました。

○村や道沿いにお墓があります。比較的新しい墓石(といってもそこいらの石が置かれているだけ)を見ると、つい最近まで多くの人が死んだことがわかります。だいたい半分は戦争で、半分の半分が殺人で、残り半分が病気などで死亡したとのことです。

○ジャララバード市内への入り口、カブール川を渡る橋には、魚料理の店が出されています。内陸国でほとんど魚を見ることのないこの国では、結構人気のようです。中州への渡し船も出ており、休息日の金曜日にはピクニックで大盛況。でも、ピクニックに行くのは男ばかりで、酒も飲まない男たちが弁当を持ってピクニックに行くというのもどうにも奇異な感じ・・・。6時ゲストハウスに無事到着。何もなくて「ホッ」とです。

○ジャララバードで過ごす最後の晩餐となりました。緊張と蓄積された疲労でみんなぐったり。昨日残ったジャポニカ米でお粥となりました。お茶漬けのりやインスタントのみそ汁など、本当に重宝だな〜思います。


5月28日(土)

文明の交差するカイバル峠を越えて

○9時30分。今日は暑く30度は越えていそう。庭の一角のケシを記念に撮影。麻薬の原料となるケシの栽培はナンガラハル州一帯で広く行われてきており、アフガニスタンが世界一の生産量を誇ります。昨年カルザイ政権がケシ栽培を禁止。他の換金作物がなくなかなか歯止めがかからなかったようですが、強い指導の効果で、この周辺でも最近見かけなくなってきたとの山本さんのお話しでした。

○4日間お世話になったゲストハウスを離れ、パキスタンのペシャワールに向かいます。国境へ向かう道沿いでは、地雷除去作業が行われ、難民キャンプ跡も見えます。荒廃した大地に、日干しレンガを積んだ家が限りなくあります。荒野に住みついた数千、数万人の難民たちに水や食料支援を行うのは、大変な作業だったろうと思われます。

○国境の町でパスポートチェック。入国審査を終え、トヨタのハイエースに乗り換えカイバル峠に向かいます。車は左側通行に。カイバル峠は数千年の昔から歴史の交差点。紀元前4世紀インドに侵攻したアレキサンダー大王も、7世紀唐の都・長安からタクラマカン砂漠を経て中央アジアのタシケント、アフガニスタンのバーミヤン、パキスタンのペシャワールを経由しインドに入った玄奘三蔵も、この峠を通ったと思うと悠久の歴史を感じます。

○2時15分ペシャワールに入ります。街が舗装されて埃っぽくなく、都会という印象を受けます。トヨタやスズキ、ホンダなど日本の自動車会社の営業所があります。久方ぶりにしゃれたレストランで、バイキング方式の遅い昼食をとりました。

○国立ペシャワール美術館に入ります。ユネスコによるガンダーラ美術保存プロジェクトのポスターが貼られています。カブール川とインダス川が合流する世界4大文明の一つが発祥した中東の地に、アレキサンダー大王がやってきて東西文化が融合。それまで偶像崇拝を持たなかった仏教に「ガンダーラ美術」が花開いたと言われます。美